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秦氏の一族・神道

秦氏の一族と賀茂氏の一族は、古くからの付き合いの深い間柄である事は既に述べた。ここまで来て一つ疑問に思った事があったので、それを検索してみる事にしたのだが、賀茂氏には祖神を祀る神社が在るのに、秦氏の神社は無いのかな? である。


調べてみると在るものだ。京都の太秦の「広隆寺」と「かいこの社」の「木島神社」に連なって「大酒神社」というのがあるではないか! しかも意図的に連ねて建立されている。現在は位置がズレて点と線が外れているが、昔は元々一つの線上に建てられていた。昔は「大酒」ではなく「大闢」と書かれていたらしい。さらには「大避」と書かれていたとも言う。


この内の「大闢」とは、ダイビャクとも読み、ダビデを示しているのではないか?? という話しもある。この漢字は中国語で読むと‘ダビ’となるらしい。この事からイスラエルのユダヤの王であるダビデの事が問われているのだ。


だが、また一説では「大闢」とは‘死刑’の意味があるとも言われている。これになると、イエスキリストの‘張り付けの刑’の話しになって来るらしい・・・。何とも謎の部分である。私個人としては‘天地開闢’の「開闢」、つまり「大闢」はユダヤの神道を日本に大きく広げるという意味で解釈したいものだと思っているのだが・・・ 無理かな?


大酒神社では、石碑に<太秦明神>と記されている。この神社の神様は、中国の最初の皇帝である‘秦始皇帝’と、秦氏の一族を連れて日本に渡って来たと言われている、自らを始皇帝の子孫であると言った‘弓月君’(ユズキノキミ:ユンズとも)と、初代の太秦である‘秦酒公’が祀られている。末裔である私は一度は行かねばならない神社である。


そして、さらに! 秦氏の神社はもう一つ在った!! それは兵庫県の赤穂である坂越(サコシ)に鎮座しているのであった。その名も「大避神社」!! 先程の「大酒神社」は、後に秦の酒公を祀っている事から‘大酒’となったのに対して、こちらの神社は‘大難を避ける’という意味から付けられている名前らしい。いわゆる‘厄除け’である。此処の神社の祭神は、秦氏の一族のキーマンである<秦川勝:ハタノカワカツ>である。そして、天照大神と、春日大社が祀られているのだ。だから京都の大酒神社とは別だと言われている。


話しによると、秦川勝は、都が奈良から京都に遷都した時から一族と共に歴史から忽然とその姿を消したと言われているが、これは聖徳太子が亡くなってから曽我氏の攻めに合うのを避ける為に、離れたとあり、この赤穂の坂越に海を渡って辿り着いたと言われている。しかも、此処は秦氏の一族の拠点の一つであったとされている場所でもある。この地に着いて3年間を過ごし、地の人達に貢献して亡くなったと言われており、神社は地の秦一族によって建立されたと言われている。


因みに、川勝の墓が神社の目前にある‘生島:イキシマ’に在るという事である。実は、大阪の寝屋川市にある、その名も川勝町という所にも「伝・秦川勝之墓」と記されている墓がある。


大阪の寝屋川市にも太秦という地名があり、この近辺にも秦氏の縁のものが沢山存在しているのだ。川勝の墓のある地名が‘川勝町’として残っている事じたいが凄い事なのだが、兵庫にも在る?! これも摩訶不思議の謎の一つだ。


川勝町の隣りは何と、八幡台!という地名であり、八幡とあるからには大阪にも秦氏の一族が拠点としていた事を物語っているではないか!! 八幡とは簡単に言えば‘沢山の秦氏’という意味なのだ。八幡の「八」は末広がりの漢字を選んでおり、沢山のとか、多くの等の意味を含ませている。そして八幡の「幡」は秦氏の「秦」の隠し文字である。そしてその近くには何と「賀茂神社」があるではないか!! 今では漠然としていて何気なく在る様な雰囲気だが、この賀茂神社が在るのは意図的だ。


さらに驚くべきは、太秦高塚町から少し行った所に{京都の太秦寺の末寺があった}と言われている跡地があり、現在はそこに熱田神社が建てられているのだ。この地も太秦中町という。この太秦中町の別の場所に‘川勝山太秦寺’というのが在る!! 何とも奇妙だ・・・。此処はその他に、太秦元町とか、太秦緑ヶ丘や、太秦東ヶ丘に、太秦桜ヶ丘、などの地名があって、果ては秦町などもある。バス停などにも太秦団地があったりする。
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