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秦一族の来たるべき時代・・・

秦氏の一族は、よく奈良時代に朝鮮半島から渡って来た渡来人と記されている事が多い様だが、  実は違う!

学校の教科書にも名前が出て来るので御存知の人もいるだろうが「魏志倭人伝」という古い日本についての事が記録されている文献で、そこには「日本には‘秦王国’がある」という事が記されている部分がある。

「魏志倭人伝」の‘魏志’とは<邪馬台国>の事だ。従って‘卑弥呼’の時代であるから大和政権はまだ無い時代である。正しく言えば日本は‘倭国’と言われていた弥生時代であり、中期以前であるので卑弥呼が女王として君臨する以前になる。

では「秦王国」は何処にあったのか? これはあまり知られてなく、歴史の研究かも悩んでいたらしい。が、調べてみると「隋書」に瀬戸内の沿岸付近である事が記されている。つまり・・・

秦氏一族は日本が「倭国:わのくに」と言われていた弥生時代には既に日本に居た訳である。だが王国など簡単に出来るものではない。この時代までに3回~4回に渡って渡来して来ているのが別の文献にも記録されている。

応神天皇の時代で弓月君の時代と思われているが、これも違う! 秦氏一族が居たのは初代天皇も居ない時代からである。

日本は初代天皇が即位してからの国であり、それまでは中国大陸の領地の一部であったのだ。日本がいつから日本と言われるようになったのか?という事を考えてみて欲しい。これは大分後の時代なのだ。かくいう卑弥呼が女王となったのも、大陸側からの女王として認めるという認可を頂いていた事で理解出来る筈である。

秦氏と言えば‘渡来人’と認識されているが、実際の話しとしては、日本に日本人は居ない。日本は古代では今ほど海抜はなく、大陸から簡単に行き来が出来た島であり、中国、韓国、朝鮮、ロシア、インド、そしてイスラエル(ユダヤ)など、あらゆる国の民族が渡って来て帰化して出来ている‘多民族国家’である。先住民と言われているアイヌ人も渡来人である。先住民というだけの話しであり、初めから島に居たわけではない。

つまり、秦氏が渡来人ではなく、貴方も渡来人の子孫なのだ。
 
 
 
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始まりの秦一族・・・

秦氏の一族は、北九州の福岡と大分を又に架けた豊国(とよのくに)に<秦王国>として拠点を置いていた。

これは、土地の人の話しは信憑性があると思えるので、歴史との照合を基に考察出来るものと判断する。
後に「豊国」は豊前(ぶぜん)と豊後(ぶんご)に分かれる事になるのだが、その「豊前」の方に一族は居たらしい。

秦氏の一族は神仏の信仰が厚いとも言われており、神社や仏閣を建立した事でも知られている。従ってそういった建築技術も優れていた事で‘技能集団’ともされている。その一つである八幡さんを祀る神社の総本社で「宇佐八幡宮」と言うものがあるが、これがその北九州にあるのだから、此処に一族が居たと言う証明の一つと言えるだろう。

技能集団と言われたのは、これだけではなく、<錬金術>にも長けており、製鉄の技術も持っていて、後の時代にはこの北九州のこの付近は全国でも鉄の採掘場としても、鉄鋼関係にしても栄えた街として有名になっている。

勿論、秦氏と言えば、蚕の飼育から糸の製法から機織で絹の精製で有名だ。日本に初めて機織を伝えたのは秦氏と言われている。

建築技術を持っている技能集団であるから、機織機など作るのは朝飯前のことであろう。だが、この話しは後にしよう。北九州のこの時代の話しの流れではまだ早いので、順を追いたいと思う。

この時代は卑弥呼の居た邪馬台国だ。30の国を支配していたと言われているが、実際は百以上の国が存在していたとも言われているので、卑弥呼の邪馬台国も全国を支配していた訳ではない。

話しによると、求菩提山に渡来人が沢山居たという話しである。しかし、日本は<他民族国家>であるので、渡来人と言っても早く日本に来たか? 後から来たか? の違いである事を認識して頂きたい。早く渡って来た者が先住民族と言われているだけである。日本の歴史は2千6百余年であり、一般庶民は苗字である名前が無かった。太郎や花子とか次郎などの名はあっても、名の前は無く、苗字を持つ様になったのは江戸時代の律令があってからだ。だから5~600年位前に苗字を持ち始めた日本人は結局、遠い祖先は何処から来た何人?であったのか? という事だ。これを考えると現在の朝鮮人を差別視している人などは、その本人こそ朝鮮から渡って来た祖先の流れであるかも知れない事を知っておく事だ。


秦氏の全国ネットワーク・メンバー募集
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神武天皇・・・

秦氏の一族は、歴史の裏で活動しているので、あまりその内容については知られていないと思う。まぁ、秦氏はどちらかと言えば、戦国時代の武将の様に、戦に勝って天下にその名を轟かそうなんて、野心や、野望は抱いていなかったと思っている。

さて、時代を大和統制(神武東征)に移そう。現在「平城京1300年」の記念となっているが、この<大和政権>の成り立ちに於ける、日本で最初の天皇である初代天皇=神武天皇が登場する。この天皇、実は渡来人である。しかも母親は‘秦氏’と言われているのだ!!

という事は、天皇家の陰では秦氏の一族が居て当然という事になるのではないか? という事である!! 神武天皇は、幾つかのエピソードを経て大和入りをしようとするが、道に迷い山越えがなかなか出来ない状態になった。で、神武天皇が難儀しているのを見ていた‘天照大神’と‘高木神’が八呎烏に命じて、これを助け、護衛して、大和入りの道案内として熊野から大和までの誘導をさせたと言われている。これによって神武天皇は大和に無事に辿り着く事になったのであった。

この‘八呎烏’(ヤタガラス)とは何ものだ? 神話というものは必ず実在した人物が居るものだ。或いはモデルになった存在が居るという事である。つまり、神話には‘からくり’がある。この‘からくり’とは、日本が「神の国」と言われる所以であり、天皇家の先祖が神様でなければならない理由が絡んでいるに違いない。では八呎烏に命じた‘天照大神’と‘高木神’もモデルである人物が存在していたと言う事である。ま、それはさて置き「八咫烏とは何者だ?」という課題に入ろう。

秦氏の居る所‘賀茂氏’あり。秦氏の一族と、賀茂氏の一族は深い間柄であるらしい。賀茂氏といえば、有名な人物が居る。それは今でこそ修験道の開祖と祭り上げられているが、役ノ行者(えんのぎょうじゃ)=役公小角である。秦氏も賀茂氏も葛城山に居た事が文献に記されていた。そして、ともに京都にやって来ているのだ。京都が京都として成り立つ前の時代であり、秦氏の一族はこの京都を開拓した事になっており、その当初は山背(やましろ)と言われていた。そして賀茂氏の一族は、都が遷都した時に御所の中の陰陽寮を司る陰陽師の家系と言われて、京都の街を方術で設計している。その賀茂氏の一族に弟子となったのが、あの安倍晴明その人だ。ま、これは平安京の話しなので、また今度にするが、例の神武天皇を護衛して、案内したあの‘八呎烏’の正体こそが、何と賀茂氏の一族なのである!! この八呎烏には‘大烏’という存在があり、これを‘金烏’=キンウと言う。神武天皇の弓の上に乗っかっている金鵄は別だ。実はこの金鵄は鴉ではなく、鳶であり、鷹や鷲の様な色彩で描かれている。その正体は賀茂氏の一族の祀る下賀茂(鴨)神社の祭神‘賀茂健角身神’ではない!! つまり、賀茂氏の一族の祖神はあくまで「八咫烏」であり、大烏=オオガラスなのである。

秦氏と賀茂氏は古代日本からのお付き合い。ルパンと次元みたいなものだ。おそらく、秦氏の情報として賀茂氏に神武天皇の援護を依頼していた可能性がある。実は賀茂氏一族は秦氏の支流の一族=秦氏の支族である。 つまり‘元秦氏’である。また秦氏の中にも‘元賀茂氏’が存在しているのだ。従って、賀茂氏は秦氏である・・・。従って、親族であり、同族なのだ。

因みに、秦氏の一族の象徴は‘鷹’である。一般に‘白い鷹’と言われているが、別の説では‘金の鷹’とも言われている・・・。
 
 
<太秦の系譜>全国ネットワーク・メンバー募集!
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秦氏の一族は最初は北九州に拠点を置いており、神武天皇は南九州と言われている。どちらも九州から始まっている様だ。大和東征の後、大和政権が始まるが、秦氏の最初の首長である「秦酒公(はたのさけのきみ)」は全国に広がって行った秦一族を招集して、管理をする役目を頂き、その首長である称号として<太秦>という敬称を与えられたと言われている。
<太秦>とは、今でこそ京都や大阪等の土地の名前になっているが、本来は地名ではなく、一族の頂点に立つ者の敬称として使われていたものである。読んで<UZUMASA>である。最も有名になったのは6代目の太秦と言われた「秦川勝(はたのかわかつ)」であり、聖徳太子の側近でブレーンの役目をしていたとされる。聖徳太子からは現在日本の国宝の第一号に指定されている弥勒菩薩の像を賜わっており、この像を安置する為に寺を建立した。この寺は最初は‘秦寺’とか‘太秦寺’等と呼ばれていたが、現在は‘広隆寺’という名で京都の太秦映画村の近くに存在している。
秦氏はその昔の日本全国の人口を記録していた文献の記録でも127県の人口を有しており、日本全体の3分の1の人口という膨大な数であったらしく、記録でも‘異常な数だ’と記されている。秦氏の一族が建立した神社や仏閣の数も物凄い数になるらしい。例えば人気の高い‘お稲荷さん’の神社の総本社である京都伏見の稲荷大社は秦氏の建立で、氏神と言われている。このお稲荷さん・・・ どれだけの数の神社が日本に存在しているのか? を考えると気が遠くなる。その次の八幡神社も全国に物凄い数があるらしいが、その総本社である‘宇佐八幡宮’も秦氏の建立で、しかも氏神である。三本柱の鳥居などは、奇怪なものだが、京都の広隆寺の近くにある‘木嶋神社’などは有名だ。松尾神社もそうだし、八坂神社もそうだ。まだまだ一杯在るがキリがないので省略する。鴨神社の賀茂氏の神社は、下鴨神社と上賀茂神社がセットで有名だが、上賀茂神社は秦氏の一族によって建立されている。この神社には‘糺の池’というのがあって、この池に入ると病気が治ったと言われている。
この‘糺の池’には、‘元糺の池’があり、それが京都の木島神社にあるのである。三本柱の鳥居は在るわ、ただすの池はあるわ・・・ 摩訶不思議と言えるが、「かいこの社」という名としても知られる神社であり、本来はコノシマニイマスアマテラスミタマ神社という名前の神社である。三柱鳥居は2度ほど修復されており、今では石造りになっているが、元々は木造で作られていた様だ。この話しは北斎の絵画の一つにこの鳥居が描かれているのがあるので、現在との違いが解る貴重なものと言える。この鳥居を修復しているのは誰か? と言えば、三越デパートによるものであるのが解った。その意外な理由は、三越デパートの前身が織物問屋で有名な‘越後屋’であるからだ。越後屋と言えば時代劇でもよく出て来るので有名だ。秦氏の一族の末裔である私としては、感謝するべき出来事であるし、意外な事に驚く話しである。機織を日本に伝えた秦氏の一族ならではの事ではないか?!

秦氏の一族・神道

秦氏の一族と賀茂氏の一族は、古くからの付き合いの深い間柄である事は既に述べた。ここまで来て一つ疑問に思った事があったので、それを検索してみる事にしたのだが、賀茂氏には祖神を祀る神社が在るのに、秦氏の神社は無いのかな? である。


調べてみると在るものだ。京都の太秦の「広隆寺」と「かいこの社」の「木島神社」に連なって「大酒神社」というのがあるではないか! しかも意図的に連ねて建立されている。現在は位置がズレて点と線が外れているが、昔は元々一つの線上に建てられていた。昔は「大酒」ではなく「大闢」と書かれていたらしい。さらには「大避」と書かれていたとも言う。


この内の「大闢」とは、ダイビャクとも読み、ダビデを示しているのではないか?? という話しもある。この漢字は中国語で読むと‘ダビ’となるらしい。この事からイスラエルのユダヤの王であるダビデの事が問われているのだ。


だが、また一説では「大闢」とは‘死刑’の意味があるとも言われている。これになると、イエスキリストの‘張り付けの刑’の話しになって来るらしい・・・。何とも謎の部分である。私個人としては‘天地開闢’の「開闢」、つまり「大闢」はユダヤの神道を日本に大きく広げるという意味で解釈したいものだと思っているのだが・・・ 無理かな?


大酒神社では、石碑に<太秦明神>と記されている。この神社の神様は、中国の最初の皇帝である‘秦始皇帝’と、秦氏の一族を連れて日本に渡って来たと言われている、自らを始皇帝の子孫であると言った‘弓月君’(ユズキノキミ:ユンズとも)と、初代の太秦である‘秦酒公’が祀られている。末裔である私は一度は行かねばならない神社である。


そして、さらに! 秦氏の神社はもう一つ在った!! それは兵庫県の赤穂である坂越(サコシ)に鎮座しているのであった。その名も「大避神社」!! 先程の「大酒神社」は、後に秦の酒公を祀っている事から‘大酒’となったのに対して、こちらの神社は‘大難を避ける’という意味から付けられている名前らしい。いわゆる‘厄除け’である。此処の神社の祭神は、秦氏の一族のキーマンである<秦川勝:ハタノカワカツ>である。そして、天照大神と、春日大社が祀られているのだ。だから京都の大酒神社とは別だと言われている。


話しによると、秦川勝は、都が奈良から京都に遷都した時から一族と共に歴史から忽然とその姿を消したと言われているが、これは聖徳太子が亡くなってから曽我氏の攻めに合うのを避ける為に、離れたとあり、この赤穂の坂越に海を渡って辿り着いたと言われている。しかも、此処は秦氏の一族の拠点の一つであったとされている場所でもある。この地に着いて3年間を過ごし、地の人達に貢献して亡くなったと言われており、神社は地の秦一族によって建立されたと言われている。


因みに、川勝の墓が神社の目前にある‘生島:イキシマ’に在るという事である。実は、大阪の寝屋川市にある、その名も川勝町という所にも「伝・秦川勝之墓」と記されている墓がある。


大阪の寝屋川市にも太秦という地名があり、この近辺にも秦氏の縁のものが沢山存在しているのだ。川勝の墓のある地名が‘川勝町’として残っている事じたいが凄い事なのだが、兵庫にも在る?! これも摩訶不思議の謎の一つだ。


川勝町の隣りは何と、八幡台!という地名であり、八幡とあるからには大阪にも秦氏の一族が拠点としていた事を物語っているではないか!! 八幡とは簡単に言えば‘沢山の秦氏’という意味なのだ。八幡の「八」は末広がりの漢字を選んでおり、沢山のとか、多くの等の意味を含ませている。そして八幡の「幡」は秦氏の「秦」の隠し文字である。そしてその近くには何と「賀茂神社」があるではないか!! 今では漠然としていて何気なく在る様な雰囲気だが、この賀茂神社が在るのは意図的だ。


さらに驚くべきは、太秦高塚町から少し行った所に{京都の太秦寺の末寺があった}と言われている跡地があり、現在はそこに熱田神社が建てられているのだ。この地も太秦中町という。この太秦中町の別の場所に‘川勝山太秦寺’というのが在る!! 何とも奇妙だ・・・。此処はその他に、太秦元町とか、太秦緑ヶ丘や、太秦東ヶ丘に、太秦桜ヶ丘、などの地名があって、果ては秦町などもある。バス停などにも太秦団地があったりする。
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